オレワールド
流し台に置いてある茶碗に浮かんでいた蚊を見つけた。
蚊は水には強いからおぼれたという事はないだろう。
力尽きて死んだのか。
やや腹は膨らんで見える。そしてここは網戸を通して外からの風が入る。
こいつには見覚えがある。昨日オレの周りをプンプラ飛んでいた蚊だろう。
オレは思う。こいつはオレとの戦いに勝利し、卵を産むため外に出ようとしていたのだ、と。
しかし網戸を張った家の中から外に出るのは容易ではない。
山梨の過疎地の蚊は大きい。そしてのろまだ。
中には血を吸うのに夢中で指で突っついても逃げないやつまでいる。
東京のごまだらの蚊のような、小憎らしく気配を察知して逃げるワザはもっていない。
いくら血を吸われようと、こんな愚鈍な奴らをどうも叩き潰す気になれない。どうすればよいのか。
蚊取り線香の手を借りて自分は手を下さず、いわば傭兵を雇ったように間接的に追い払うのが関の山で。
「オレの血はたくさんある、吸いたきゃ吸え」とさえ思う事がある。
・・あなたが知らぬ間に血を吸われたとする。
蚊はもう体が赤くなるまで吸い、腹は満タンだ。自ずと重量オーバーで飛行速度も落ちてあなたの前をよろよろと飛ぶ。
あなたは足をぼりぼり掻きながら「この〜!」と憎悪を込めて叩き潰すだろう。
そして真っ赤な血の中に潰された蚊を認め、復讐の満足感を得るかも知れない。
しかしそれはフェアじゃない。
あんたは卑怯者だ!
既に蚊は十分目的を達し、もう危害を加える事はない。
そいつを見逃してもいいはずだ。
その蚊はあなたの気づかないうちに血を吸い、決死の闘いに勝利した。
ちょっとかゆくなるけど、いうなれば微罪、憎しみを込めて叩き潰すほどの事だろうか?
蚊は身体に備わった機能だけの徒手空拳、言わば裸で素手である。
命を賭けて戦いに勝利した相手を、強大な力をもって悔し紛れに命を奪っていいのだろうか?
国との裁判で十何年も戦ってやっと勝訴した人々を、国家がメンツのために逮捕して殺してしまったらどう思う? ポルポト、旧ユーゴ、独裁国家、ファシズム、原爆。
大量殺戮は繰り返されてきた。謀略、民族浄化・・無抵抗なものへの残虐な仕打ち。人間の根底にある暴力性を垣間見た気がしないだろうか。
あなたに潰された蚊はメスである。
本能に従い目的の半分を遂げ、子孫を残すべく離脱を急ぐ途中の理不尽な圧死。
さぞ無念だろう。
白状すると・・「あなた」は以前のオレだ。
オレはもう40年以上蚊どもと戦ってきた。
これからも長ければ20年もの長い戦いになるかも知れない。
しかしこれだけは思う、卑怯者にはなりたくない。
コレがオレワールドだ!